人は変わらないけど自分は変えられる(2月後半から3月前半の出来事その2)
3月。
引越し日というか立ち退きの前日となりました。
この立ち退き日というのは、管理会社側が決めた日にちです。
わざわざ管理会社の窓口に出向いてこの日にちでと決めたものでした。
当初コロナの影響で立ち合いをしていない。
退去費用がいくらかかるのかまた先払いとなっている家賃のうち、退去費用にどれだけ使うのかわからない
という説明でした。
後になって高額な退去費用を口座から引き落としされても困るので
立ち会ってほしいとお願いをして、
「この日にちだったら行けます。でも、お金は○日分いただきます」
という超過分のお金の支払いを約束をして決まった退去日でした。
ところが、数日前になって管理会社からはそんな連絡は聞いていない。立ち合いはしないという連絡があり、では退去日って、超過料金て一体なんだったのだという事になったのです。
とはいえ、水電ガスは退去日で止まるように連絡をしていましたし、もう揉めるのもばかばかしいくらいのコールセンターの対応でした。(ちなみに自分もコールセンター勤務経験者です)
とりあえず最寄りの消費者センターに連絡をしてこういう事案があったという履歴を作り、そういう履歴を消費者センターにはいいましたよと管理会社にも伝えたうえで、引っ越し作業を続けました。
この時点で私の精神的な負荷は100%以上だったと思います。
そして、片付けの手伝いと宅配所までのに持ち運びの為に、
姉と姪が来てくれました。
前日までに私が仕訳けたものの中にいわゆる「中古として売れるもの」
がありましたので、車に乗ってそこまで査定に行きました。
春先ですしこんなご時世なので、とても混雑していました。
姉も春にとても忙しくなる仕事をしており、疲弊していて運転するのがやっとの状況でした。
そこで査定が終わるまでの1時間近場のファミレスで
モーニングでも食べようという話になりました。
モーニングを食べている間、姪がいない頃合いを見計らってはちょこちょこと実家の様子が姉から語られました。
実はだいぶ以前から父の様子が悪かった事、
ただ本人が見栄っ張りなので自分に介護が必要な事を隠していた事(主に下の世話など)、
定年後移り住んだ100年超の古民家(父方の実家。水周りだけ改装済)では、
とても自宅介護なんてできないという事等などを話していました。
全て想定の範囲内でしたし、
何より私にはもう父母が必要としている金銭的な援助も、肉体的な援助も出来る状態ではないし。
それは家族にも伝えていましたので、そうなんだと言いながらも聞く事に徹していました。
そして、今まで頑なに「自分の事は自分でできる」「父がいなくなっても自分はなんとかなる」と言っていた母親が、急に弱気になって「どうしよう」と言い始めたとも聞きました。
父母はともに70歳超です。父については80歳越えてもうアラナイとなっています。
人は年齢と共に体内や脳内が衰えて、場合によっては人格が変わると私は考えています。
もし介護や終活の事を考えるなら順応力のある
若いうちに準備をするべきと思っていたので、その話を聞いた感想は、冷たいようですが「でしょうね」という気持ちだけでした。
そして何より、今日はとにかく自分の家の引越しの為頭をフル回転させていました。
モーニングの後に買取店に行ったものの、あまりにも混みすぎていてまだ査定できていないと言われました。
仕方なく家に戻りましたが、日頃から片付けや掃除の苦手な姉に引越しの掃除を手伝ってもらう事は無理だと判断し、仲良くしている姪っ子だけに残ってもらい掃除を続けました。
最初は、近くで車で待っていると言っていた姉も、事務仕事があると言って
17時くらいに迎えに来ると言い残して自分の家に帰って行きました。
そこからはとにかく掃除でした。査定がされない以上、自分の目につく範囲の汚れはきれいにして写真とムービーを撮影し、とんでもない高額な請求には文句を言われないように必死で掃除をしました。手伝ってくれた姪には本当に感謝しかありません。
ごみ置き場に持っていける可燃ごみも翌日がごみの日という事もあって持っていきました。
実家から持ってきていたもう何年も使用していない布団のセットなども布団袋に入れて二人で汗だくになって運びました。
朝の出来事が思わぬほどにかかったので、ここまででも3時間くらいです。
それでも、勿論自分の引っ越しです。
私は(そして姪も)体力の限界までがんばりました。
ただ、このひ最大の精神的苦痛を私は今後受けることになるのです。
(長くなって申し訳ないですがまだつづきます…)